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以前、病気の本人に代わって「命の決断」をする、代理意思決定についての記事を書きました。
では、自分の命に関する意思決定(もしもの時に延命を望むか、どこまで治療をするかなど)は、“いつ”すればいいか考えたことはありますか?
近年、「終活」という言葉が生まれ、自分の最期をどう迎えるのかということに、向き合う人が増えてきました。
そこで今回は、自分にもしもの事が起こったときに大切なことを、命に関わる仕事である看護師という立場から伝えてみたいと思います。
1.自分の最期についての意思決定をするタイミングは「今」
自分自身の最期に対する意思決定について考えるタイミングは「今すぐ」です。
では、なぜ今すぐ考える必要があるのでしょうか?
80代や90代という高齢になったら考えるというなら分かる
でも、20代や30代の若く健康なうちに、考える必要なんてない…と思う方もいると思います。
自分の最期について考えるタイミングが今である理由について話していきたいと思います。
①「その時になったら考える」が大多数
「自分の命に関する意思決定は、いつすればいいか考えたことがありますか?」
以前グリーフケアのイベントに参加してくれた方に、この質問をしたことがあります。
貴方ならどう答えますか?
イベントに参加してくれた方は
40歳くらいかな
60過ぎたら
病気になった時
子どもが生まれた時に夫婦で話した
など、いろいろな答えが返ってきました。
医療・介護職に携わっている方のように、一度でも「自分の意思決定について考えたことがある」という方たちは、「40歳」や「60代」など、明確な年齢(時期)を答える傾向にありました。
ですが、圧倒的に多かったのは
考えたことがなかった
分からない
という答えでした。
それぞれの経験によって答える「時期」は違いますが、共通するのは「その時が来たら考える」ということでした。
②日本は「死生観」についての話を避ける傾向にある
日本では、「死」に対する話題をタブー視する文化があるため、こういった「死生観」についての話題は出しにくいのが現状です。
そのため、死生観についての話題を避けてしまい、自分の最期について考えるタイミングを聞いても
分からない
病気になったら
というように、明確な時期を考えられなかったのでしょう。
しかし、死は悪いものではないと、僕は思っています。
※これについては別の章で詳しく解説しています
自分にとっても、家族にとっても大切なことなので、避けるのではなく伝えやすい・考えやすい環境を作っていくことが大切です。
③「今」考えて伝えておくことが大切
自分の命に関する意思決定は、何があるか分からない、突然選択を迫られるからこそ、「今」考えておくことが大切なんです。
医療や介護に携わったことがある方は
と言いましたが、これは正しいのでしょうか?
正解というものはないかもしれませんが、個人的には「正しくはない」と思っています。
※年齢を答えた人がダメだ!と否定しているわけではありません
医療現場で働いていると、「意思決定」をしなければならない瞬間に立ち会います。
昨日まで普通に暮らしていた人が、突然「選択」を迫られます。
当たり前のことですが、あまりに突然のことであるため、ほとんどの方はすぐに答えを出すことができません。
心身ともに元気な方であっても、事故により入院するというケースもあります。
- 病気があるから
- 元気だから
- 高齢だから
- 若いから
こういった理由に関係なく、意思決定の瞬間はやってきます。
突然やってくる「もしもの時」だからこそ、「今」考える必要があるんだと思います
生きていれば、いつ何が起こるか分からない。
分からないからこそ
「今」自分がどう在りたいのか
「今」自分はどうしたいのか
という意思を考えていく必要があるんです。
すぐに答えは出ないかもしれません。
それでも、「自分の最期について事前に考える」ということが大切です。
2.自分の考えを身近な人に伝えておく
自分の最期について「今」考えれば、それだけで良いわけではありません。
その考えを、身近な誰かに伝えることが必要です。
もしもの時が来る前に、自分の意思を誰かに伝えておく。
そのために、誰に伝えるのかを考える、伝えられる環境・雰囲気づくりを事前にしなければなりません。
①考えていても伝えなければ意味がない
僕は、治療をしている患者さんを看護しながら
自分だったらどうするだろうか
自分の家族だったらどうするだろうか
いつも考えています。
迷っている方やご家族に、「自分だったらこうします」という意見をお伝えすることもあります。
(個人的な意見であって、押し付けではないと伝えるなど、伝え方には最新の注意を払います)
ですが
自分自身についての、「もしもの時どうしてほしいのか」を、自分以外の誰かに伝えてたことはありませんでした。
仕事上、「自分だったら」と考える機会は多くても、自分の意思を身内などに伝える機会は、全くと言って良いほどなかったんです。
このように、普段から「意思決定」に触れている医療従事者でも、自分の死生観を誰かに伝える意識というのは低いということです。
②考えたら伝える機会をつくる
いくら意思決定について考えていても、その想いや考えを誰にも伝えずに持っているだけでは足りません。
突然来た「その時」…、もしかしたら「自分の意思」を自分のくちで伝えられないかもしれない。
実際に、そういう方もたくさんいらっしゃいました。
だからこそ、普段から伝えられる環境をつくる、「死生観」について家族や身近な人と話し合う機会をつくるようにしてみると良いでしょう。
3.死は悪いものではない
少し暗い話になってしまったかもしれませんが、あまり話すことのない「死生観」。
せっかくなの機会なので、もう少しだけ「死生観」について深く解説していきたいと思います。
前述しましたが、僕は「死」は悪いものではないと思っています。
では、なぜ僕が「死」を悪く捉えていないか?
その理由をこの章で語っていきます。
①死が悪いものならば、人生は負け戦になってしまう
日本の文化では、「生」は喜ばしい・良いものであって、「死」は忌むべき・悲しい・悪いものと捉えられがちです。
(そう思っていない方もいますが、日本では一般的にこういう考えのほうが多いですね)
医療の分野でも、極端な言い方をすれば、「治す」ことが正しく「死」は負けという考えに近いものを持っている方もいます。
でも、生も死も、どちらも自然の流れの中のひとつ。
本来「良い」も「悪い」もなく、そこにあるのは
「出会えて嬉しい」
「会えなくなって悲しい」
という、それぞれの感情・想いだけです。
この感情・想いにも「良い」「悪い」はありませんよね。
もし、「死」を悪いものや、負けだとするのであれば、生物は常に「負け」に向かって進んでいることになります。
医療も「死」が自然な事である限り、自然の一部である「人間」が自然に抗えるわけがありません。
医療が「死」にを負けと考えたら、その瞬間から常に「負け戦」に挑んでいることになってしまいます。
医療は、「死」に抗うのではなく、自然の流れとして受け入れつつ、治療をしていくものなのではないかと、僕は考えます。
②悲しさの先にある想いに目を向ける
もちろん「死」は、その後、もう会えなくなるという意味があるので、深い悲しみを持つのは当然だと思います。
そして、予測できない見えない未来であるため、「不安」「恐怖」を感じるのも分かります。
僕にも、このような感情がないかと言ったら、当然あります。
どちらかと言えば「不安」や「恐怖」は、人よりも強いかもしれません。
それでも、今まで看てきた「患者さんの死」が、悪いもの、負けとは思いたくない。
悲しく辛いことかもしれないけど、本人にとっても、残された人たちにとっても大切なことだと僕は思いたいです。
悲しんでくれる人がいることは、その人にとって幸せなこと
悲しさがあるということは、その人がそこに存在した証
悲しいということは、そこに関係を築けていた証であり、想いがあった証
悲しい想いの「その先にある想い」に目を向けてみると、「死」に対しての考え方が少し変わるかもしれません。
4.まとめ
「死」を悪いものと考えず、自分の最期をどう迎えたいのかという問いに、しっかりと向き合い、自分の意思を伝えられるときに伝えたい人に伝えておく。
自分にもしもの事が起こる前に一度「自分の最期」について考えてみましょう。
僕は看護師として、「死」に対する自分の悲しさも、患者さんの悲しさや辛さも、ご家族の悲しさや辛さも
すべてを大切にできる看護師で在りたいし、そう在り続けようと思っています。
この記事が、少しでも誰かの気持ちに寄り添えるものでありますように。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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